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高鍋の先賢 その⑥

住友財閥3代目総理事。高鍋の四哲と称される哲人。

鈴木 馬左也

〇すずき まさや

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〇生没年 文久元年2月24日(1861年4月3日)~大正11年(1922年)12月25日

〇職業:住友商事総理事

~生い立ち~

 鈴木 馬左也は文久元年(1861年)に高鍋藩家老、秋月種節(あきづき たねよ)と妻久子の子として生を受ける。

 この秋月種節の子供……水筑 弥太郎・黒水長平・秋月左都夫(さつお)・鈴木 馬左也はのちに「高鍋の四哲」と称される。

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↑高鍋町南高鍋にある鈴木馬左也別邸。現在は老人福祉館別館として使用されている。

 馬左也8歳のとき、長兄弥太郎が獄中にて病死。25歳であった。前年、江戸藩邸にかくまった薩摩藩士を救出に赴く途中、幕府に囚われ投獄されていたのである。さらに実母久子が45歳の若さで急逝。さらに母方の大叔父、鈴木翔房(たかふさ)が没し、その養子衞房(もりふさ)も戊申の役に参加して戦死した。

 そのため翌明治2年、鈴木家再興のために衞房の養子となったのである。

 明治9年、旧制宮崎中学を卒業した。翌明治10年、西南の役が勃発。実父秋月種節は西郷軍に参加しようとした旧高鍋藩士に対し、逆賊になると反戦論を展開。そのため高鍋に進軍してきた西郷軍に捕らえられ、同じく反戦論を唱えた藩士と共に幽閉され、獄中で病死した。64歳であった。

 馬左也は宮崎中学を卒業後、金沢の啓明学校に入学。しかし1年で退学して、明治11年から東京帝国大学予備門に入学。明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業。内務省に入る。

 明治22年5月愛知県に書記官として赴任、翌23年5月別子銅山開坑200年祭に来賓として招かれる。住友との出会いであった。

~官吏から企業人へ~

 明治29年(1896年)、35歳のとき農商務省参事官を退官、住友に入社。大阪本店の副支配人となる。

 この馬左也の決断に伯母の杣子は「町民にはなりたくない」と一晩泣き明かしたという。だが、このとき馬左也は官界に失望しており、住友家の「徳を先にし利を後にする。徳によって利を得る」という事業方針に引かれての入社であった。

 明治32年、別子鉱業所の支配人になり、伊庭貞剛の別子大造林計画を継承。大正6年から、北は北海道北見から南は宮崎県椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林でも植林を敢行した。

 一方、新居浜の煙害問題解決の手段として沖合い20キロの無人島「四阪島」に精錬所を移し明治38年から本格操業を開始した。だが、煙害は収まるどころか、風向きの影響もあって対岸の今治・壬生川まで及んでしまった。明治42年、地元農民と住友との協議の場で馬左也は煙害の根本解決を宣言。大正2年、住友肥料製造所(現在の住友化学)を建造。亜硫酸ガスから硫酸を製造、過燐酸や硫安などの肥料を精製した。 

 明治37年、住友第3代総理事に就任。43歳であった。

 明治44年、住友電線製造所(現住友電工)を設立。わが国最初の電話・電力用高圧ケーブルを製造した。

 明治45年には伸銅場(現住友金属・住友軽金属)で継ぎ目のない銅管の製造に着手し、海軍の復水管需要にこたえる。

 大正7年、日米板硝子(現日本板硝子)設立。 大正8年に大阪の臨海工業地帯建設のため大阪北港(後の住友土地工務。現住友商事)を設立した。また同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(現住友共同電力)を設立。さらに椎葉村の植林事業に関連して耳川の水利権を確保した。

 これらが現在の九州・四国電力発足の遠因となっている。

 大正9年には日本電気へ資本参加。

 1921年には住友本店を合資会社に改組し、住友の発展に大いに貢献した。

~引退・晩年~

 大正10年、馬左也は病に倒れ、住友家家長の友純に辞職を希望したが許可は下りなかった。翌11年、再度病に倒れてようやく辞職の許可が下りる。

 家長友純は、その感謝状の中で、「今日、我住友ヲシテ中外ニ重ヲ為スニ至ラシメタルモノ、誠ニ君ノ力ニ依ル。曩(さき)ニ、広瀬宰平翁ニ依テ成サレタル我家中興ノ緒業ハ、君ヲ得テ始テ大成セラレタリト謂ヘシ。」と述べている。鈴木はこれを見て安心したかのように同年12月25日に没した。

 享年61歳であった。

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