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高鍋の先賢 その①

不定期掲載シリーズ、「高鍋の先賢」。

記念すべき第1回はこの方です。

○石井十次(いしい じゅうじ)

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生没年:1865(慶応元)~1914(大正3)

 

宮崎県児湯郡高鍋町大上江馬場原で生まれる。

日本で最初に孤児院を創設した人物。「孤児の父」と呼ばれ、また、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。

高鍋藩下級藩士石井万吉、乃婦子の長男として生まれる。体格に優れ腕白であったが、純情な少年だった。

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↑石井十次生家(高鍋町)

7歳の十次少年が、神社の祭りに汚い身なりに縄の帯を締めていた友人が他の子供に虐められていたのを庇い、母の手織りの帯と交換してあげた、というエピソードがある。

14歳のころ、海軍士官を目指して上京、攻玉舎に入学するも脚気を患い退学。郷里に戻り、明治14年に結婚、小学校で教鞭をとり、ついで警察署の書記として勤める。

このとき、医師でクリスチャンでもある荻原百々平(おぎはらとどへい)に出会い、キリスト教に入信。医師を目指して岡山に赴く。

岡山で医師の勉強をしばがら病院の助手をしていた十次であったが、明治20年、巡礼途中で夫に先立たれ、途方にくれた母子から子供を引き取り、育て始める。

さらにその後も2人の孤児を預かった十次は、岡山の三友寺の住職に許しを得て山門に「日本孤児教育会」の看板を掲げる。十次22歳のことである。

孤児教育会の孤児の数が増えるに従い、資金もかかるようになり、医学の勉強に時間を割くこともままならなくなった十次は、

「医師になるものはたくさんいるが、孤児を救済しようとするものは自分において他にない」

と一大決心、医学書を焼き捨ててしまう。

「日本孤児教育会」を「岡山孤児院」に改め、十次は独自の教育方針(「働きかつ学ぶ」「満腹主義」)のもと精力的に活動を続けるが、濃尾大地震などで発生した孤児の多くを引き取るなど孤児の数は増え続けた。

十次は明治27年に活動の拠点を宮崎県茶臼原に移すべく孤児60名を先遣隊として派遣、本格的に開拓を始める。明治30年には物資と孤児の輸送を本格化させた。

この時期、妻品子が死去。辰子と再婚している。

明治31年、孤児院の活動を広報し、寄付を募る目的でイギリス式ブラスバンド隊を編成、町を回って音楽会や幻灯会を催した。ブラスバンドは当時まだ珍しく、大変人気を博したという。

倉敷で開催した音楽幻灯会で若き大原孫三郎(後の倉敷紡績株式会社社長)と知り合った。

財閥の御曹司で放蕩の限りを尽くした大原は放蕩の末に借金にまみれ(今で言うと1億円程度の借金を作ったといわれる)父親から謹慎を命じられている身であったが十次の活動に深い感銘を受け、その活動を生涯支援することを約束する。

明治30年(1897年)、「岡山孤児院尋常高等小学校」を設立。明治32年に幼稚園を設立する。

明治37年、日露戦争勃発。明治39年東北地方を大凶作が襲う。これらで生じた孤児を引き取り、岡山孤児院の孤児の数が1,200人を超えた。

大正元年、随時行っていた茶臼原移住が女子部の移転をもって完了。大正2年、私立茶臼原尋常小学校設立。

「親のない孤児よりも、いっそう可哀相なのは心の迷い児、精神の孤児である」

十次は常にそういって孤児たちの精神面でのケアに心を砕いたという。

大正3年、長年の無理がたたり、持病の肝臓病が悪化。多くの孤児に囲まれて永眠した。享年48。

「鮎は瀬にすむ 鳥は木にやどる 人はなさけの下に住む」

彼の死後、大正6年に大原孫三郎らの手により彼の事業は引き継がれてゆく。

大正15年、岡山孤児院、茶臼原孤児院はその活動を終了するが、昭和20年に太平洋戦争の戦災孤児を救済する目的で石井記念友愛社として活動を再開。現在に至っている。

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↑高鍋駅線路沿いにある「孤児の父」の碑。

1 comment

1 荻原 明信 { 12.04.18 at 10:25 PM }

 一点だけ,ご対応をお願いいたします.荻原百々平の読みが「おぎはらとどへい」となっていますが,「おぎわらどどへい」が正しい読みです.どうぞよろしくお願い申し上げます.

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