高鍋城の歴史

~高鍋城の歴史~

◆土持氏の時代(平安時代初期~室町時代中期)

 karahana

△土持氏の家紋「唐花」

 おおよそ1,200年程前、県(あがた/現在の延岡市)の有力者であった土持氏が、勢力を拡大させていくなかで、一族の土持秀綱(ひでつな)が財部(たからべ/現在の高鍋町)に居城を構えた。その居城が「財部城」と呼ばれた。財部を中心とした地域を支配した秀綱の一族を「財部土持氏」という。

◆伊東氏の支配から島津氏の支配に(室町時代中期~安土桃山時代)

itou_m

△伊東氏の家紋「庵に木瓜」

simazu

△島津氏の家紋「丸に十字」

 長禄元年(1457年)、都於群(とのこおり)の伊東祐堯が、財部土持氏を破って財部城を占拠し、財部土持氏は伊東氏に下る。以後、伊東義祐が島津義久に敗れ、日向を去るまでの120年間、伊東氏の持城となった。

◆秋月氏の時代(安土桃山時代~明治時代初期)

aki_zuki

△秋月氏の家紋「三つ撫子」

○天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐によって、島津氏が豊臣に降伏した。その後、同じく九州征伐で降伏し、櫛間(現在の串間市)・財部に移封された秋月種実の城となる。

秋月種実は櫛間城を居城としたが、その子種長の代に財部城を本拠とした。

○慶長5年(1600年)、徳川家康により江戸幕府が成立。関が原の合戦で西軍についていた種長であったが、東軍に内応して西軍の城を落とした功績が認められて所領を安堵され、「高鍋藩」の初代藩主となる。

○3代藩主・種信のときに、門、堀、政庁、三層櫓を整備、近世的な城郭を築いた。また、「財部」を「高鍋」に改め、城も「高鍋城」とした。

e7b5b5e59bb31

△高鍋城大手門の絵図

○10代藩主・種殷(たねとみ)のときに明治維新がおこる。明治4年(1871年)の廃藩置県で高鍋藩が廃止され、高鍋県になると県庁が置かれた。高鍋県が美々津県と合併した後は美々津県の出張所となった。

○明治6年(1874年)に宮崎県へ統合され、高鍋城も解体された。現在は石垣や石段、堀の一部を残すのみとなっている。

pict0194

△秋月種信のときに整備された城堀。県内でも水を湛えた城堀はここだけである。初夏は蓮の花が美しい。

pict0071

△高鍋城大手門跡。現在は高鍋農業高校の敷地である。

コメントは受け付けていません。